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帝都の文化、風俗、その他の帝都

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 大正期の文化、風俗、生活、そしてその他の帝都の話題を紹介します。
 まあ、生活にかかわる雑多な項目あり、帝都における出来事ありのなんでもあり、 どうでもいいような項目も含めた(笑)その他です。
 また、あえて普通選挙法と治安維持法、原敬の暗殺には触れていません。特に説明の必要はないかな、と感じたからです(まあ、護憲運動には触れていますが)。

■帝都の文化、風俗、その他 項目一覧
■当時の服装
■「今日は帝劇、明日は三越」
■浅草六区
■カフェなど
■大正の食生活
■パン食
■電話
■成金と新中間層
■大失業時代
■東京大正博覧会
■護憲運動
■アインシュタイン来日
■カチューシャの歌
■新しい食べ物
■金色夜叉
■銀ブラ
■大本教取締
■赤バイ
■スペイン風邪
■当時の警察
■鬼熊報道
■災害と疫病
■帝都の埋葬事情

■当時の服装
 明治期より盛んに欧化が叫ばれ、服装などにもそれを推し進めようと、政府は官吏の制服として洋服を用いました。
 しかし、実際には洋服を着るのは役所や会社、工場などに出勤する場合がほとんどであり、仕事着として扱われていました。
 仕事に行くときは洋服だが、家では和服、などというのが実態で、洋装はそうそう定着せず、大正10年、それら流行の最先端の街であった銀座での調査でも、 男性の50%が、女性ではわずか1%が洋服を着用するに止まりました。
 女性のほとんどは和服を着ていましたが、それでも社会に進出して働く職業婦人と呼ばれる女性達が 徐々に増え、洋服を着はじめます。洋服を着ない人も、きものの上から事務服を着て活動しやすくしました。
 和服にエプロンなどというのはカフェなどで見られた服装で、実際は和服に襷掛けでエプロン、という不便なものであったため、 割烹着が登場したのもこの時期です。
 また、女学生などの袴にブーツなどという和洋折衷の服装がそれなりに定着した時期であり、 また明治期の様な珍妙な服装も減った時期にあります(当時の人から見れば袴にブーツでも十分に珍妙に見えたようですが・・・)。
 大正後半ともなると、学校の制服などにセーラー服の洋服が採用されたり、銀座の街にはモボ、モガが現れました。

■「今日は帝劇、明日は三越」
 大正時代の流行語にもなった、三越とそして帝劇が提携して行ったイベントのプログラムの宣伝コピーです。
 また、有閑婦人の代名詞でもあり、帝劇は大正一のハイカラ劇場、三越は最高級デパートと歌われ、 帝劇、三越へ行くことは時代の最先端を行くことを意味していました。

 三越は大正3(1914)年に日本橋に本店、ルネサンス式新館を新たに建築し、有名なライオン像や、 日本初のエスカレーターなどを備えていました。
 三越は早くから呉服店と言う名前を返上し、呉服店が特定の顧客のみとしか商売をしなかったのに対し、 「百貨店」という新しいスタイルで、大衆を相手に衣料品、雑貨、生活用品を販売し、 まさに現在のデパートが行うような、新しいライフスタイルを提供する情報発信基地へと変化していきます。
 百貨店は、単に物を買う場所としてだけでなく、「行楽スポット」であることを宣伝し、 豊富に品を揃え、新しいライフスタイルや娯楽施設などを提供するとともに、全国に広く伝えるために新聞や雑誌などに広告を展開しました。

■浅草六区
 浅草六区の興行街には劇場、映画館、寄席などが20軒近くも軒を並べており、兵隊や、丁稚、学生、書生などで賑わっていました。  明治36年に国内初の活動写真常設館として、電気館が開館、以後大正のオペラなどへと続いていきます。
 明治20年からという老舗劇場「常盤座」の右隣に明治43年開業の後に浅草オペラで有名な「金龍館」が、 大正2年に左隣に洋物封切りの活動写真館(映画館)「東京倶楽部」がオープンします。
 そして、この廊下で繋がった三館を十銭で楽しむことができる「三館共通」システムは大正3年に始まりました。
 また、オペラ館、帝国館、電気館、千代田館、大勝館など活動写真館が多く、 通常の封切館では20銭であったところ、六区では軒並み七銭で、六区の興行街は連日のように賑わっていました。
 これらの活動写真館は、まず一本目が実写、次に滑稽物、そして最後が大物と呼ばれる劇映画の順に上映されるのが基本で、 二本目と三本目の間に休憩演奏がありました。
 この休憩演奏は、オペラの序曲、管弦楽曲から世界各国の流行歌まで幅広く演奏され、活動写真館に詰め掛けた青年たちに大きな影響を与えました。  当時、活動写真は無音であり、活動写真弁士(略して活弁と呼ばれます)が独特の活弁調の台詞、音調で解説などを行うものでした。
 また、活動写真と言う名は、大正6年に活動映画と改められています。

 「浅草十二階」の名で知られる凌雲閣は明治23年に完成で、八角形の塔の形をした建物内部には、日本で最初の電動式エレベーターも設置されています。
 10階までは煉瓦造りで、11、12階は木造で、エレベーターは8階まで通っています。 その8階までは、各階に輸入品を扱う店舗が50件近く入っており、ちょっとした百貨店の様相を呈していました。
最上階の12階には望遠鏡なども設置されており、凌雲閣がオープンすると帝都を一望しようという人々が大勢集まりました。
 観覧料は大人8銭、子供4銭で、階上からは遠く品川方面までも見晴らせ、またその威容は上野の山や神田のニコライ堂からも望むことができたといいます。
 凌雲閣は大正12年の震災により、8階部分から倒壊してしまいました。

 また、浅草公園付近は有名な私娼窟で、犯罪者の隠れ家にもなっていたことで有名です。
 これらの発展を当局が厳しく取り締まっていましたが、あまり大きな効果を上げることはできず、 結局関東大震災のどさくさ紛れるまで撲滅できなかったようです。

■カフェなど
 コーヒーや紅茶などはすでに明治初期のころから知られていましたが、普及し始めたのは明治の後期からです。
 明治後期より、ブラジル政府のコーヒーの宣伝などもあり、現在の喫茶店とも言えるミルクホールなどがオープンをはじめます。
 日本で最初のカフェは明治41年に大阪でオープンした「カフェ・キサラギ」であるといわれていますが、帝都では京橋区に明治44年に 「カフェ・プランタン」が一番最初です。
 これは帰朝した洋画家の松山省三がヨーロッパのカフェを懐かしんで作ったもので、会員には画家、作家の著名人が多数を占め、 文化人のサロンとなりました。
 プランタンのオープンを皮切りに、銀座を中心にコーヒーやアルコール、軽い洋食を出すカフェが相次いで登場し、和服に大きな白いエプロンをかけた 若い女給がサービスすることから人気を呼びました。
 これらのカフェは次第に女給のサービスがエスカレートしキャバレー化していくものと、純喫茶となっていくものに分かれます。
 カフェの女給の多くはなんと無給(!)で、客からもらうチップなどが主な収入だったと言われています。
 ビアホールなどが登場したのは明治30年代で、それまでのビールは輸入品が中心であまり美味しくなかったのですが、明治20年代に 国産で安価で美味しいものが出て、ビアホールの登場によりビールは他の洋酒を圧倒し、清酒に迫る勢いでした。

■大正の食生活
 戦争景気はそのまま物産市場の拡大につながると同時に、都市部に住む人口を増加させ、そしてその所得も増加しました。
 結果、それまで麦食であったのが米食へと変わっていきます。とは言え、米はまだまだ贅沢品である為、農家が銀飯を食べることはめったになく、 その食生活は明治期とあまりかわりがなかったようです。
 しかし、都市部の、特にサラリーマン達の間では、コロッケ、カツレツ、シチュー、ライスカレーなどといった洋食が家庭でも提供されるようになりました。 「今日もコロッケ、明日もコロッケ」と歌われた「コロッケの唄」がそれを示しています。
 ライスカレー、カツレツ、コロッケの三つは「大正の三大洋食」と言われ、在東京の歩兵連隊の嗜好調査を行ったところ、フライ、カツレツ、コロッケでした(フライが入っちゃいますが、洋食が一般化している例です)。
 また、カツ丼も大正期の大学生が大学近くのカフェに勧めてやらせたと言われています。
 カレーは大正の中ごろから一般化し、大正12年には家庭でも作られるカレー粉が発売されました。

■パン食
 パンはすでに幕末より輸入されていましたが、一般にはまったくと言ってよいほど普及していませんでした。
 また、パンを作る技術も非常に稚拙で、とても食べられたようなものではなく、またそこへ付けるバターなども「もっとも不味い食べ物のひとつ」と言われるものでした。
 これらのパンは軍隊においてパン食が実施される他は、一般には口にされないものでした。
 パンは、戦争の度に改良され、第一次世界大戦で中国のドイツ租借地青島を攻撃した際に、捕虜となったドイツ人達が日本のパンの不味さに閉口し、 自分達でパンを焼かせてほしいと申し出たことで、ドイツパンを焼かせたところこれが日本人の嗜好に合い、日本のパン業者が ドイツパンの製法を学び、各地に普及しました。
 また、これだけに止まらず、第一次大戦後、日本に留まってパン屋を開いたり、新たにパン職人になるものもいました。 ジャーマンベーカリーや、神戸のユーハイムなどです。
 そして大正8年、浅草に平民パン食堂が開店、「パンにバター、紅茶、野菜スープ」がセットで15銭で提供され、 プチブル達の人気を博しました。

■電話
 大正期の電話は現在のような自動交換式ではなく、交換手を通して交換する方式です。自動交換式が登場するのは大正15年(昭和元年)です
 電話は現在のような受話器と送話機が一体になったもの、受話器だけが独立しており、送話機は本体についているものもあります。
 手動交換の電話のかけ方は以下の通りです。

  1. ハンドルを回し、交換台を呼び出す。
  2. 交換手に相手(電話をかける先)を告げる。
  3. 交換手が相手を呼び出す。
  4. 相手方の電話が鳴る。
  5. 相手方が電話に出る。
  6. 交換手が電話をかけた相手を案内する。
  7. 交換手が回線を接続する。
  8. 相手方と直接会話する。

 また、自働交換のものはダイヤルがついており、当時のポスターには次のように書かれていました。
 一、先ず相手の番号をよく調べてから
 一、受話器を静かに外して耳にあて、かすかな通信音が聞こえてから
 一、送話口の下の回転盤を指止まで廻して放す
 一、ジージーの音は「お話中」、ツーツーの音は「呼出中」

 大正9年に、東京・大阪・京都・神戸・名古屋・横浜の6大都市において、市内通話が度数料金制(市内通話1度2銭)となりました。 それまでは、市内電話は均一料金で「使い放題」「かけ放題」でした。
 その為か、この改正以降、公衆電話(当時は自働電話と言い、大正14年に公衆電話と改称しました)がよく利用されるようになります。
 また、火災報知などはそれまでは特に決まりもなく、知らせを受けた交換手の処置に委ねられていました。
 出火の情報が流れると、「火事はどこか?」という問合せが多数あり、電話交換の妨げになると明治32年以降「出火問合せの電話お断り」ということになっていたほどなのです。 大正6年に火災報知制度が実施され、「火事」と告げれば直ちに交換手が消防署へつなぐようになりました。
 大正15年に電話交換が自動化された東京では、「火災通報は112番」となり、昭和2年に「119番」となりました。

■成金と新中間層
「成金」も大正時代の流行語の一つです。
 戦争成金、船成金、その他、株、鉱山、鉄、土木・・・上げればきりがないほどで、第一次世界大戦による戦争特需は成金を多く輩出しました。
 中でも成金族の御三家は、鉱山の久原房之助、船舶の山下汽船、貿易の鈴木商店で、官尊民卑の大正時代でも彼らの勢いは役人の比ではなく、 数々の逸話が残っています。
 ただし、これらの成金族も大戦の景気がはじけるとともに凋落するものが多くでてきます。
 そしてこれらの成金ほどではありませんが、大戦の景気の影響は都市部のサラリーマンにも及びました。
 生活水準の向上したサラリーマン達は、ホワイトカラーと呼ばれる新中間層となり、プチブルを気取り、ファッション、文化住宅、洋食文化などといった言葉も流行りました。

■大失業時代
 大正期の前半は戦争の特需に浮かれ、バブルさながらの景気でしたが、戦争が終わり軍需景気が終わると、日本は一気に不況へ転落、成金も歩に戻ります。
 一時は政府が国庫を放出し、だましだまし景気が保たれていましたが、大正9年の「戦後恐慌」、11年の「銀行恐慌」、12年の「震災恐慌」、 昭和2年の「金融恐慌」と続き、果ては昭和5年の「大恐慌」と底無しの泥沼状態です(現在に似てる気もしますがね(苦笑))。
 これらの恐慌は、労働者に失業という形で襲い掛かります。
 極端な話、社員の半分、ほぼ全員を首切りにするなどの記事も当時の新聞紙上には躍っています。
 大正8年1月の休戦協定より労働者の解雇が目立ち始め、同年9月には5万5千人と報じられ、続いて 国際軍縮により国内での兵器需要が激減、大正11年には失業者総数は80万人と言われています。
 これらで職を失ったのはなにも工場労働者だけではありません。「大学はでたけれど」が流行語になるのは昭和のはじめですが、 東京府の労働紹介所(現在の職安?)には、大学や士官学校卒の高学歴の者も並ぶ有様でした。
 この大失業時代に、労働組合などが政府に失業者救済や雇用創出などの失業対策を迫るとともに、様々なデモ、大会を開き、 窮状を訴えました。

■東京大正博覧会
 上野にて、大正天皇の即位奉祝と産業振興を目的に東京大正博覧会が大正3年に開催されました。
 日本初の「動く階段」エスカレーター(乗るには10銭が必要でした)と、不忍池に設置されたロープウエー、 快進社の国産小型乗用車「DAT-1号」(後のダットサン)などが展示され話題を呼びました。また、美人島探険館なる、水中美人、幽霊美人、蛇体美人などと言う檻の中に入った美人を見て回るものもありました (詳しい資料がありませんので、詳細は不明ですが、なんとなく江戸川乱歩のかほりが(笑))。
 大正3年3月20日〜7月31日までの約4ヶ月の開催期間の間に、日延べ5万人、合計746万人もの入場がありました。
 しかし、会場内には紙屑が散乱し、落書きの類も絶えず、3月21日の『時事新報』などは、「館外道路の不体裁夥しきものにて、塵芥掃除の行届かず、 屋後便所の不潔、落書の醜怪、是が開会の第一日とは如何しても受け取られず」と報じています。

■護憲運動
 日露戦争後の、植民地経営、軍備拡張路線の為の増税や、外資導入などにより財政が窮迫、国民への生活へ大打撃を与えました。
 これにより、増税に反対し、普通選挙の実施などを求める運動が盛んになりました。
 大正元年の第二次西園寺内閣の行財政の引き締め政策と、陸軍の師団増設が激しく対立、当時の陸相上原勇作が単独で辞職し、 後任が決まらずに西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。
 その後を陸軍の実権を握る桂太郎が組閣しますが、この藩閥専制に対して第一次護憲運動が起こります。
 政友会の尾崎行雄や国民党の犬養毅を担ぎ上げ憲政擁護会を結成、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに第一回大会を開催し、 運動は全国に波及しました。
 これらの動きに対して桂は詔勅による内閣不信任案の撤回を謀りましたが、この桂の詔勅を盾に取ったやり方に民衆は猛烈に反発、 暴動が起こり御用新聞社および政府よりの新聞社、与党代議士宅、交番、警察署などを襲撃、焼き討ちにしました。
 騒動は帝都に留まらず、大阪、神戸、広島、京都にも拡大し、各地で暴動が起こっています。これらの暴動は最終的には軍隊が出動し、鎮圧されました。
 結果、桂の内閣は総辞職に追い込まれました。

■アインシュタイン来日
 大正11年11月17日にアインシュタインが来日、19日に慶応の中央講堂で『一般性及特殊性相対原理』を公演しました。
 この他、仙台、京都、大阪、福岡などで公演を行い、前年にノーベル物理賞を授賞したばかりのアインシュタインは各地で熱狂的な歓迎を受けました。
 アインシュタインは12月29日に門司から榛名丸で帰国しました。

■カチューシャの歌
 カチューシャとは、大正3年に帝国劇場で上演された『復活』(原作トルストイ)のヒロインです。
 これを松井須磨子が演じ、序幕と四幕の幕切れに「カチューシャ可愛や別れのつらさ」と歌われる劇中歌「カチューシャの歌」 が大流行しました。
 大正3年に『復活』は映画化され、また翌4年には「カチューシャの歌」がレコード化、片面レコード一枚1円50銭、 蓄音機すら珍しい時代にも関わらず、大正4年だけで二万枚(トータルで二十五万枚)も売れました。
 なんとこの『復活』の上演回数は大正8年に松井須磨子が自殺するまでに、444回にも及んでいます。

■新しい食べ物
 大正3年、森永のミルクキャラメルが一般でも食べられるようになりました。
 前年から発売していたのですが、ばら売りで80粒40銭、しかしそれでは携帯に不便ということで、 缶入りで10粒10銭と高価であったのですが、紙サック入りのものを開発し、20粒入りで10銭となりました。 当時、ミルクキャラメルは煙草の代用品とも宣伝されており、ターゲットは子供だけではなかったようです。

 大正3年、佐久間ドロップが発売。当時から例の缶入りでした。

 大正14年にキューピーマヨネーズが発売になりましたが、当時は高級調味料であり、まったく無名であり初期出荷量はわずか、 デパートの仕入れ担当者ですらポマードと間違える有様でした。

 大正8年、カルピスが発売されます。カルピスは発売当初より宣伝に力を入れ、大正11年に「初恋の味」と言うコピーを持って、 カルピスが酸乳飲料の代名詞となるまで普及に成功しました。

 大正初期よりアメリカからコカコーラが輸入されていましたが、こちらはあまり宣伝に力を入れておらず、 外国に詳しいはずの著名人ですらもコカコーラを飲み物と知りませんでした。コカコーラが強くなるのは戦後のことです。

 大正11年にグリコが発売されます。発売当初より「一粒三百メートル」のコピーで大好評だったようです。
 なお、発売当初はおまけがついていません。

 明治中期より登場した、サイダーとラムネ、カキ氷とアイスクリームですが、これらも大正期にはよく消費されるようになりましたが、 サイダーとカキ氷は庶民の、ラムネとアイスクリームは新中間層以上のものとなっています。

■金色夜叉
 金色夜叉は、明治30年から5年半にわたって読売新聞に連載された尾崎紅葉の代表作で、単行本化されるや、たちまち大ベストセラーとなりました。
 内容としては、第一高等中学校(旧制一高の前身)の生徒・間貫一と鴫沢宮は婚約していましたが、宮の両親は、 それを諦めさせて銀行家の息子・富山唯継に嫁がせます。貫一は、宮が金に目がくらんで心変わりしたと思い込み、守銭奴になる・・・といった、 現在ならば午前1時半から2時ごろにやっている類です(失礼)。
 明治末期に多く舞台化され、歌は大正5年に作られました。

■銀ブラ
 様々ないわれがあり、明治末期から文化人が、あるいは大正中期から学生などが、「銀座をぶらぶらしている」「銀座でぶらぶらする」ことを 指して、銀ブラと呼ぶようになります。
 人々は仕事や学業を終えると交通機関や徒歩で銀座に出て、夜店を冷やかすなり、買い物飲食にそれぞれの夜を過ごしていました。
 またそうでなくとも、都市の先端を行く都会の空気に触れたい中間層が集まってきました。
 また、銀座の西側を歩くのが銀座通と言われ、露天の出る東側を歩くのは田舎者と言われています。

■大本教取締
 大正7年に、大本教の開祖出口ナオは死去、以来娘婿の出口王仁三郎を中心に「大正維新」と称した 「立て替え立て直し」「鎮魂帰神法」を中心とした運動を始め、大正9年に大正日日新聞を買収、大々的な宣伝に乗り出しました。
 この結果、当局は、「立て替え」時期の宣伝による人身惑乱や、「鎮魂帰神法」の医療妨害的側面から、 大正10年に不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、王仁三郎ら幹部を検挙し、大本教本部の大捜索が行われました。
 この後、幹部が脱退するなどで大本教は分裂しますが、昭和10年に再び大弾圧を受け、大本教は壊滅します。

■赤バイ
 交通事故の増加に対して、大正7年に警視庁は交通専務巡査を100人配置します。
 当時は白いバイクではなく、赤いバイクで、白バイは昭和11年からです。
 現在のような速度計測器が無かった為、スピード違反らしき車を発見した場合、追走し、そのバイクの速度を見て 速度を量るというものでした。
 ちなみに当時の制限速度はなんと時速10マイル(16Km/h)!
 制限速度を守っている車に自転車が追突するなどという事故もあったようです。
 一応、時速15マイル程度までなら目こぼししてもらえたようです。

■スペイン風邪
 大正7年5月にスペインで発生した悪性のインフルエンザは、1923年までに世界で6億の発病者、 死者2130万人という有史以来の大流行となりました。
 日本にも大正7年8月に発生、10月〜11月に関西を中心に全国で蔓延し、大正10年に至るまでに 3回の流行が繰り返されました。
 発病者2380万人、死亡者39万人。当時の日本の人口は5470万人で、その1/3以上が発症し、 学校の休校はもちろん、鉄道や郵便などに支障をきたしたり、あるいは火葬場が間に合わないなど、すさまじい流行ぶりだったようです。

■当時の警察
 明治に入り、警察組織が組織され、主に士族からなる邏卒(明治5年に巡査と改称)が治安維持にあたりました。
 警察は言うなれば治安維持軍的な、その構成員のほとんどが元軍人、軍関係者です。
 彼らは最初は長さ1m程度の棍棒を標準装備としており、言うなればそれこそ制服を着た捕り方の様なもので、 拳銃やサーベルなどの装備はありませんでした。
 明治15年になり、西南戦争で活躍した抜刀隊を意識してか、あるいは警察内の士気を高めるために、 帯刀を許可し、一般警察官はサーベルを標準装備とします(しかし、大正の大震災時に抜刀して治安維持にあたっても効果は薄かったらしいです)。
 大正に入ると乗馬警察官(文字通り、馬に乗った警察官です)などは短剣を装備するようになります。
 大正13年から特高(特殊高等警察)を中心に拳銃の装備が始まり、警視庁でもFN/ブローニングM1910と コルト・ポケット.32(M1903)などが400挺ほど採用され、地方警察も予算に合わせて購入したようです。
 大正期では、「デカ」と言えば拳銃、「警官」と言えばサーベルで間違いないようです。

 維新の西南戦争時に薩摩軍の白兵戦に悩まされた官軍が警視庁抜刀隊を組織したのは有名で、 殺人許可のある抜刀隊は通常の警察の手に余る重大犯罪、凶悪犯罪に出動しました。
 なお、いつまで抜刀隊が存在したのかは不明です(大正初めの日比谷焼き討ち事件時に、抜刀隊がどうこう、という記述も見られ、 大正までもあったことは確かなようです)。

 抜刀隊と合わせて、鉄砲組と呼ばれる陸軍払い下げの小銃などを装備した(当時にしては)重武装組織も存在したようです(実働はあまりなかったようですが)。

■鬼熊報道
 大正末、15年8月に、千葉で起きた、通称、「鬼熊事件」です。
 二人の愛人に騙されて別れることになった「熊さん」こと岩淵熊次郎が、その愛人の一人「おけい」を撲殺、 その後、「おけい」に熊次郎と別れることを勧めた長老宅に放火、それを止めようとした数人を鍬で殴り倒しました。
 さらに、別れ話に関わっていた巡査にも報復の為襲撃し、そこでサーベルを奪うと、別の愛人の別れ話で熊次郎を騙した相手の家を襲撃、 サーベルで切り殺しました。さらに、この男とぐるになっていた男の家へ向かう途中、追ってきた刑事に重傷を負わせ、山中へ逃走します。
 この追跡劇は42日にも及び、連日、その様子が新聞各紙に報道されました。
 凶暴な連続殺人、放火事件であるにも関わらず、地元では義侠心に富む男として人気があった熊次郎のその犯行はやむにやまれぬものとして、 同情をもって受け止められます。
 その為か、記者たちも最初は「殺人鬼熊次郎」を略して「鬼熊」であったのが、後には「熊公」「熊」となり、そして「熊さん」となってしまいます。
 この人気は大変なもので、子供達のあいだで「熊ごっこ」なるものまで流行ったといわれています。
 また11月には鬼熊事件をドラマ化した映画がすでに上映されていました。
 これらの人気は新聞、映画ニュース、赤本などの報道メディアが作り上げたもので、さながら現代のごとく、メディアが作り上げた虚像を商品化、消費する、 といった構造が見られ、大正期といえど、「情報の娯楽化」がされる好例であると思われます。
 

■災害と疫病
 大正期は、関東大震災に代表される様々な災害、あるいは疫病が起こっています。
 明治期より日本はどうも不衛生の国であったようで、様々な流行病によって多くの人命が失われています。
 100人以上が死傷する台風、水害、大洪水、などの自然災害は言うに及ばず、食中毒、ペスト、チフス、コレラなどが流行したり、 炭鉱火災、大火事、船舶の沈没なども少なくありませんでした。
 これらの災害、流行病、事故が年に一度は必ずあり、なんら無い年は存在していません。

■帝都の埋葬事情
 まず、明治7年に、「火葬禁止令」が廃止されています。しかし、実際には火葬は一般的ではなく、相変らず土葬が中心だったようです。
 さらにその後、明治17年に「墓地及埋葬取締規則」が出て、埋葬に関する法律が整理されました。
 大正に入っても相変らず土葬が一般的で、大正末期より都市部に火葬場が建設され、火葬も一般的になってきたようです。
 また、明治7年に造成された、青山、谷中、雑司ヶ谷、染井などの公営墓地が一杯だ、と大正4年に報じられます。
 その為、大正12年に多磨墓地が作られ、ここに火葬場も備え付け、面積を取る土葬から火葬への以降が始まります。
 ちなみに、東京市はこれらの墓地の永久使用料として、1坪あたり1等6円、2等3円、3等1円50銭、4等60銭として貸与しました。

 言うまでもないことですが、埋葬方法は宗教によって異なりますので、なにも土葬ばかりだった、というわけではありません。



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